Wの日誌

映像編集業。1977年生まれ。

たまたま。

たまたま、住んでる地域の小学校に入って、まんま、中学校にあがって、学力に合致する高校にいき、途中で自らの選択で、学校環境をかえることもなく、12年をすごすっていうのは、ほんとうのところ、よいことだろうか。

親は、卒なく、高校までは出て欲しいとか思うけれど、ただ、出るだけなら、形骸化も甚だしいし、10代という貴重な時間の喪失であるような気がしなくもない。

かといって、自らの意思でなにかを、やったり、始めたりする10代が、偉いかというと、それも個々人の資質だから、えらい、ということでもなく。

ただ、10代にして、社会の枠組みを信じ、そこからはみ出すことをおそれ、生きるのは、その先が大変であるような気もするから、なんにせよ、自らの意思。

それは、ある種の間違った欲望でも、よいかもしれない、が、それに突き動かされるほうが、個人の人生としては、健全なのではないかとは思う。

一番まずいのは、学校や大人に、個人の欲望が抑圧されていると感じながらも、その抑圧に、実のところ甘んじて、愚痴腐敗を並べたてながら、甘く怠惰にすごすことで、愚痴をいいながら、社会や大人に甘えていたら、キリがない。

モラトリアム。高尚理想を語りながら、それを実現できないのは、自分の意思努力の足りなさではなく、社会大人のせい、と不貞腐れるのは、御門違い。

しかし、それでもなお、日本の義務教育、高等学校は、そんなモラトリアムを生むような、同調圧力と均質化、凡庸化、の坩堝。

個人の無能に帰するのみでは解決せず。

教育制度が、ガラリと変わらないと全然ダメだろうな。と、思う。

黒板をやめて、小学校のうちから、個々に好きな科目を勉強する授業にして、とにかく、全員が一斉になにかをしなくてはならないという機会を減らしていったほうがいい。

全体でなにかをすることに重きをおき続ける義務教育には、個人的に違和感しかない。

隙間に。

40歳をすぎたおじさんでも、一応、仕事が忙しくて、もはや、それが大変にありがたいとまで思うわけだけど、いかんせん、体力も気力も追いつかなくて、どうやって、休み、仕事に支障を来さないように頑張るかが、命題になっているわけですが、少しの休みで、最大の休息を得たつもりになるか、もしくは、細かく休み、それを集めて最大の休息と感じるようにするか。

数か、密度か。

 

でも、結局のところ、自分なりの休む方法をもっていないと、とてもじゃないけど、身も心も保たない。

 

自分の場合の休暇は、色でもなくギャンブルでもなく、飲酒読書ライブ音楽。

少しでも、アルコールと音楽を浴びる時間があればいいし、本が読めて映画が観れたらいい。

 

いくら忙しくても、とにかく、好きなことを、隙間隙間にいれていけば、どうにか生きられるはずとは、思う。

 

 

ひさひざに、公共の場で暴れるところであった。

自営業になってはじめて、確定申告したが、その面倒くささに、自殺を考えるぐらいだけど、さらには、etaxで、送信して、受け付けました、となったので安心していたのに、音沙汰がないので、電話したら、不備があったらしく。

それなら、それと、2月12日に出してるのだから、その不備に対して、連絡くれてもいいのではないか。問題あれば、連絡する、って書いてあったし。

 

で、結果的には、青色申告ではなくなり、税金あがり、還付金さがるという、地獄のようなことになり。

 

心底、税務署にたいして、腹がたったので、本当に〇〇したくなりましたが、鎮静剤のんで、安静にして、仕事して、夜中、不備のあった書類を送らないとならないわけで。

 

どこまでいっても、生きるのは、クソ面倒くさいな。

テレビはなくなる。

テレビ番組は、決まった時間に決まった長さでしか放送できないのに、YouTubeをはじめとしてネットは、いつでもどこからでも見られて、長さも決まってない。

これは、絶対に当たり前に勝てるわけがない。

作り手は、いろいろと御託をならべて、尺が決まっていたほうがクオリティがあがるとか、放送時間が決まっていたほうが視聴習慣でみてくれるとか、ほとんどマヤカシの新興宗教のようなことを信じている。

 

今はまだ、テレビをみる世代が辛うじて存在しているけど、あと10年もしたら確実に、テレビをみる世代はいなくなると思う。完全にいなくなるまでは、もう少しかかるかな。

 

すべてのめんにおいて、ネットに負けているのに、まだ、我が物顔しているのは、既得権益を必死に守り続けているからにすぎなくて、そんな利益はじきになくなるのは、自明の理。 

 

過去に成立していた利益を守るのは、バカげたことだけど、なかなか、新しいことに移れないのも、仕方なくて、自分なども、そういう人間なので、ダメだなと思う。

 

 

時間への折り合い

家族の暮らしを成立させるには、自分が人生の時間をだいぶ、使わないと、成立し得ない。

そういう意味では、自分の人生の時間は犠牲になっているわけだけど、その犠牲を上回る幸福と充足、安心を家族から貰っているとすると、納得ではある。

しかし、それを本当に、心から納得しているのか。

わりと、分からない。

 

人生の最終局面において、今までの道筋を全否定したくなるかもしれない。

 

家族も親子関係も、そういう意味では死ぬ瞬間まで、それが満足たりえたのか、結論は得づらい。

自分があと、3ヶ月で死ぬとなった時に、今までの時間の使い方に納得し、折り合いをつけられるのか、ちょっと分からない。

 

 

年末か。

ひとつき、休まなくても、家人をはじめ誰からも心配されることのない人生を送っており、家族最高とかは、全然思わないわけですが、それに加え、入金の関係上、キャッシングしないと生活出来なくて、なんか、なんで生きてるのか謎な感じがあるのが良い感じです。   

 

そして、若い人に完全にオッさん扱いされて、ココロがゆっくりと死んでいく感じもまた、新鮮で、平成も、ついに終わるということらしく、昭和、平成、その次と、死ななければ生きることになる自分としては、気分は後期高齢者なのであって、さっさっと、世の中から、偉そうに議会で居眠りしてるジジイが一掃されることを祈ります。

そんなに働かなくても

やはり日本人というのは、過度に真面目に働く人が多いように思うけれど、これは、ある種の民族的なDNAなのか、戦後70年の教育や制度により、培われたものなのか。

わりと、僕は戦後70年の教育制度と、社会の傾向が、大きく影響してるように思う。

 

働くことは、美徳であり、ちゃんと働けば、未来は明るいものになる、というテーゼが、脈々と生きているのだろう。

そもそも、働いてないイコール、税金を払ってない、国の世話になっている、つまりみんなの迷惑になっていると感じる人達が多いのだろう。

近代国家は、国民主権で、国民がまわしていくのだから、その一員として、ちゃんとした義務を果たせ、さもなければ‥‥という心理が抑えられないのは仕方ない。

 

働かざる者食うべからず。

まあ、はい、その通りです。

 

なもんだから、優秀に働くことが間違ってるということは、ないから、みんな働いて、周囲に認めて貰おうとするわけで、とにかく働き手として優秀な者を、最良として、義務教育や株式会社、官僚公務員システム、を作り上げてる。 

なにも、間違っていない、そして、よくできた仕組みでもある。

 

で、わりと、繁栄した。

 

そして、ふと、我にかえると、本当のところ、生理的に肉体的に、こんなにも働きたいのだろうか、と感じたりすることがでてくるわけです。

 

そんなに働かなくても、わりと、快適に生きられるのではなかろうかと、思えるような世の中であるし。

 

働かなくても、そこそこ楽しい。

もしくは、働いても、あまり楽しくならない予感がする。

 

繁栄しなくてもいいのでは。

そう思えてくる。

まあ、まだまだ世間的には、クズとか、ダメ人間、とか、みんな働くのが正義だよね、と思いたいばっかりに、レッテルを貼るわけであろうが、欲求に従えば、休みたい遊びたい、のほうが、働きたいより、勝るのではないかと、素朴には思える。

 

現行の社会システムを信じ、働くことを至上の義務とし、殉じていく人はきっと、おもいのほか多いだろうし、一定数、働き続けてくれるのは、実際には、ありがたいだろう。

働き蟻や、働きバチは、必要だろうから。

 

でも、働くのが美徳で、尊い

ちゃんと働いてる人が、優秀で尊敬されるべきというのは、実は、社会の人身御供になってくれる人募集、の誘い文句で、働いてる人そのものが、幸せになる仕組みではないので、むやみに働く事を礼賛するのは、やめましょう。

ましてや、他人に働く事を強要するのは、ほとんど暴力なんじゃなかろうかと。

 

まあ、しかしそうして、働かないでいると、働く組は多くて同調圧力がすごいので、どんどん、肩身の狭い思いにとらわれるけど。