Wの日誌

映像編集業。1977年生まれ。

怒られ、回避。

怒られるのがイヤだから、仕事上のコミュニケーションを避けて、もっと怒られる状況をつくりだす、主に若い男性に多い傾向の原因は、なんなのだろう。

 

現代的な観点で、予想されるのは学生の頃から携帯電話があって、直接のコミュニケーションが減り、対面でのやりとりと、コミュニケーション齟齬に対する耐性が弱いというのは、考えられる。

居心地の悪くなったコミュニケーション空間を正常化しなくてはならない場面の経験値が少ないのかもしれない。

草食化とかいうけれど、他者がいなくても、一定の娯楽がネットにあふれているので、気持ちとして基本的には、ひきこもりがちにならざるを得ないのではなかろうか。

 

そりゃ、ほとんど知らないようなオジさんオバさんとコミュニケーションをとり、その人格と仕事の進め方を学び、怒られたら次は怒られないようにしよう、などというモチベーションはもちえようもない。

自分だけの楽しいことをしていたい。

 

でも、自分だけの楽しいことをしていたいのは、オジさんオバさんにしても同じはず。

なのに、しないのは、まあ、いわゆるところの教育により社会化され社会の一部たるを引き受けて、それでなんらかしらの満足と金銭を得てきたからなんだろう。

重要なのは、満足と金銭。子供の頃に学校や家庭で、教育と称して言われ続けたことに従った結果に、今のオジさんオバさんは、ある程度満足しているのであろう。

自分が従ってきた教育や社会を価値あるものと考えるのは、人の気持ちとして仕方ない。

きっと怒られることに対しても、その先に満足と金銭があると頑張って、その結果を得たのだろう。

しかし、それが果たして未来永劫に通じるメソッドなのかというと、満足も金銭も、昔と今では明らかに変質していると思う。 

 

満足でいえば、会社や家庭で褒められ満足を得る手段しかなかった時代から、今や、世界から、いいね!を貰える時代である。

自分のつぶやきが、見も知らぬ人から、いいね!されることのほうが、近しい人から褒められるよりも、価値や満足は高いだろう。

近しい人は色々な事をくみとって、褒めてくれているだけかもしれないし。

金銭にしても、やりたいことでお金を作ることは、技術的にはるかにやりやすくなった。

会社に入らなくては就職しなくてはダメだ。なんてことはなくて、むしろ、なんらかのレアな能力、ニッチな才能を持っていたほうがいいぐらいなことになっている。

会社に入って金銭のために、怒られるなど、好きなことで暮らして儲けている人が増えてる世の中で、若い人からしたら馬鹿げていることだろう。

 

やはり、総じて、仕事のできない若者が増えたというのは、仕事における満足と金銭が変質してるからなのは、否めないのではなかろうか。

怒られ、を乗り越えるだけの価値を、会社や仕事にあまり感じ得ないのではないか。 

 

それでも、コミュニケーションコストをショートカットしようとする傾向は、デジタル技術の影響が若干あるのかもしれない。

対人コミュニケーションにおけるストレスに耐性のない若者を作りやすい環境は増えてるとは思う。

会社や金銭への態度の変質は、時代とともに方法をかえて、柔軟に生きたほうが長い目ではよいと思うけれど、対人コミュニケーションにおけるストレス耐性と、その対処法は、わりといかなる時代においても鍛えるに損のない、そして、元手もかからない、重要なスキルで、あらゆる人種年代の人とコミュニケーションをとれるようになることは大切な気がする。

 

なので、怒られたくないのは分かるけど、コミュニケーションはショートカットしてはならない。

まあ、でも、コミュニケーションが一番面倒くさいけど。

デザイントークスプラスという番組の編集を、放送開始から担当させてもらっているけれど。 

https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/designtalksplus/

 

なにより面白い。テーマをたてて、でも、中身は自由に。なにかを作ってる人の声が、わりと、ダイレクトに放送されている。

結論ありきで、硬直化する日本国内の番組より、色々な人が出てるし、広い視野を持った番組で、すきです。

 

ザ・ノンフィクション

6月18日と25日の二週にわたり、編集をしたphaさんの暮らしが放送されます。

 

働かないでいると肩身の狭い世の中ですが、別に働かないで、好きなことして暮らせたら、それにこしたことはないのでは、ないかと。

さらには、好きなことがお金になるのであれば、それにこしたこともない。

 

なぜか、世の多くの人は、若者は必死に働いてなんぼだ、若いうちは我慢して働くもんだという、洗脳をうけていて、つくづく戦後の高度成長期の成功体験は、この国に強固に根付いたんだなと、思わざるを得ない。

なので、今だに時代遅れの一斉板書授業してる学校なのに、規則を守る、つまり言うことをちゃんときいて、疑問を抱かず、大学までいって、企業に勤め税金をちゃんと払う、そういう時代遅れのロボットみたいな人をつくろうとする。

 

いつまでも、なんで変わらないのか、不思議でならない社会のなかで、僕と近い年齢の人が、新しいことをやっていると嬉しいし、より広く知られて、みんなもっと、自分の好きなことをして暮らす工夫をし始めるようになったらいいのに。

 

どうせ一度きりで死ぬ人生なのに、社会を気にして、ニートだからと自分を責めることなんて一ミリも無いし、社会のために役立つ人材になる必要なんてない。

人生の時間は、完全に有限である。だからこそ、それは自分のものとして、生きなくてはならない。

嫌なことは、1秒だって我慢しなくてもいいはず。

ただ、1秒の嫌なことの先にもっと、長い幸福の時間があるということはあるだろうけれど。

しかし、その1秒を我慢するかどうかを決めるのは、常に自分であるということさえ、ぶれなければいいと思う。

他人の評価、社会の価値観、家族の束縛支配、生きる指標を自分の外に置いては、どこまでも自分の時間を生きられない。

 

本当は、働くか働かないか、ということよりも、より多くの選択を自分で行えているかということなのかもしれない。

そうしないと、どこまでいっても、十全には生ききれない。

映像LOVE

映像コンテンツといっても、昨今では様々な、ありさまがあることは、万人の知るところかと思う。テレビなどは、そもそも、制作費をもってる、概ね、大きな会社が権利関係では一番強い。

でも、実際には、コンテンツそのものの制作に人生の時間を一番かけている、発案者という存在があって、世の中へのアウトプットには様々な形態があっても、その映像が存在する根底には、個人の想いが色濃く、ある。

映像の一番、素晴らしい根幹は、その映像を残したいと思った個人的の主体が、スタート地点には絶対に存在する事で、撮影、撮るという行為には、絶対に能動的な動機が存在していて、その気配が消えることはまずもって絶対にない。

だから、僕は映像に絶対の愛を感じる。

長崎島原!

高校生の子供に毎日弁当つくるのが、面倒だけど、それはそれで趣味化してる感じもあり。気づけば、5月も終わる。

 

先日は、お仕事で飛行機という、何故こんな鉄の塊が空を飛ぶのか、というものに乗って、長崎まで行った。

そもそも、親類縁者に西の者がいないこともあり、縁のない九州地方に行けるのは、人生なにがあるか分からない的な奇跡なので、面白い。

 

尊敬する同じ番組の関係者と偶然、羽田合流し、諫早で、大げさには数年ぶりな気もするウナギを食べる。

おいしかった。

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そして、島原は、とてもよいところで。

魚もお肉もおいしく、食いしん坊万歳でした。

雲仙ハム、と刺身盛り。

 

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快晴と城。

仕事なのであまり、ウロチョロも出来なかったけれど。海があって、城があって、温泉があるのだから、悪いところであるはずがない。

 

あまり何があるわけでもない、都市圏に住む人間としては、海と温泉があるというのは、ほぼ桃源郷なのでは、ということはあります。 

 

 

 

 

ターシャ・テューダー静かな水の物語

いよいよ、明日から公開ということで、なにより多くの人が劇場に来てくれるとよいな、と思うことしきりなわけです。

およそ、100年前にうまれ、90年以上を生きた画家であり、作家であり、ガーデナーであり、というか激動の20世紀において、信念をもって生き続けた人です。

自分は、どう生きたいか。そのことだけを、できる限りにおいて実践して生きたと思います。

時代のせいにも、世の中のせいにも、人のせいにもしない。まあ、生きざまとしてかっこいいわけです。

言い訳のない生きかた。

自らの好きなことに、手を動かしつづけ、自らの作ったものを慈しみ続けた姿は、現代にはあまりみることのできない人間の姿です。

それが、音のともなった映像として、残ったことは、すごい財産かと思います。

二度の世界大戦のあった20世紀の100年、科学や進歩が良しとされ、そのなかで、人類史上もっとも、人間同士が殺しあった100年です。

その100年の中で、ターシャさんがどのように生きてきたか、それが映画では少し分かるようになっています。

世界がどうなっているか、どうなっていくかより、自分は何が好きか、なにを愛せるか、そのことにより世界とつながるほうが、豊かに平和になるような気がします。

 

映画「ターシャ・テューダー 静かな水の物語」公式サイト

 

高校入学

自分もさほど勉強しなかったくせに、自分の子供には、つい勉強というか課題は期限までにちゃんとやれ、と言ってしまうのは、どうしようもなくて。

でも、自分から進んで、高校に行くと決め、そこに行くくせにそこで出せれる課題を初っ端からやらないということは、なぜそこに行くのか謎だ、と思われても仕方ない行動であるようにも思うわけで、高校には行くけれど、そこの指導には従えぬというなら、まあ、辞めたほうが双方のためと思える。

勉強しないのに大学に通う学生が、私にとっては意味がわからなかったのと同じで、自分は、なぜに行くのか謎なところには行きたくもない。

 

それでも、思うに私も高校においては、遅刻欠席こそさほどしなかったものの、苦手科目についてはとことん勉強しなかったので、そういう点ではなぜに通っていたのか、という点がなくもない。全てが合目的的に行動しないといけないわけではないけれど、何らかの目的は持っていたに越したことはない。

なるべくしかるべき目的を持って生きたほうが、将来にとって有益な方向に転べる可能性が高いように感じられるのは、錯覚ではないとは思うので、他人にとってはくだらないかもしれないような目的でも「なんとなく」よりは少しはマシなのではないか。

というのも、今の日本ほど、なんらかの目的を持ちそこに向かえば、ある程度近いところまでいけるような社会は有史以来ないかもしれない。

例えば、あまり働かずに生きていこう、という目的を持っても、わりと叶えることができるのかもしれないのだ。目的を持たないのは勿体ないとも言える。

 

だから、むやみに、勉強しろ、とは言いたくない。勉強するのが、全ての人間に当てはまる目的への可能性の扉ではないわけだからだ。

しかしそれでも、高校に自ら入ったなら、そこには高校で出される課題をクリアできる人間になるという目的はあって、然るべきはずなので、ただ「なんとなく」入ってなんとなく、過ごすなんていうのは、それが「目的」でもない限りやめてほしい。

「なんとなく生きる」という究極的な「目的」を子供が持っているのかもしれないが。

それは、現代社会を持ってしてもなお、難しい気もする。

 

でも、本来は「ただ、生きている」だけなんだとは思うけど。

勉強やら高校やらに色々なことを仮託しすぎだろうな。

なんとなくでもいいのか。