Wの日誌

映像編集業。1977年生まれ。

そんなに働かなくても

やはり日本人というのは、過度に真面目に働く人が多いように思うけれど、これは、ある種の民族的なDNAなのか、戦後70年の教育や制度により、培われたものなのか。

わりと、僕は戦後70年の教育制度と、社会の傾向が、大きく影響してるように思う。

 

働くことは、美徳であり、ちゃんと働けば、未来は明るいものになる、というテーゼが、脈々と生きているのだろう。

そもそも、働いてないイコール、税金を払ってない、国の世話になっている、つまりみんなの迷惑になっていると感じる人達が多いのだろう。

近代国家は、国民主権で、国民がまわしていくのだから、その一員として、ちゃんとした義務を果たせ、さもなければ‥‥という心理が抑えられないのは仕方ない。

 

働かざる者食うべからず。

まあ、はい、その通りです。

 

なもんだから、優秀に働くことが間違ってるということは、ないから、みんな働いて、周囲に認めて貰おうとするわけで、とにかく働き手として優秀な者を、最良として、義務教育や株式会社、官僚公務員システム、を作り上げてる。 

なにも、間違っていない、そして、よくできた仕組みでもある。

 

で、わりと、繁栄した。

 

そして、ふと、我にかえると、本当のところ、生理的に肉体的に、こんなにも働きたいのだろうか、と感じたりすることがでてくるわけです。

 

そんなに働かなくても、わりと、快適に生きられるのではなかろうかと、思えるような世の中であるし。

 

働かなくても、そこそこ楽しい。

もしくは、働いても、あまり楽しくならない予感がする。

 

繁栄しなくてもいいのでは。

そう思えてくる。

まあ、まだまだ世間的には、クズとか、ダメ人間、とか、みんな働くのが正義だよね、と思いたいばっかりに、レッテルを貼るわけであろうが、欲求に従えば、休みたい遊びたい、のほうが、働きたいより、勝るのではないかと、素朴には思える。

 

現行の社会システムを信じ、働くことを至上の義務とし、殉じていく人はきっと、おもいのほか多いだろうし、一定数、働き続けてくれるのは、実際には、ありがたいだろう。

働き蟻や、働きバチは、必要だろうから。

 

でも、働くのが美徳で、尊い

ちゃんと働いてる人が、優秀で尊敬されるべきというのは、実は、社会の人身御供になってくれる人募集、の誘い文句で、働いてる人そのものが、幸せになる仕組みではないので、むやみに働く事を礼賛するのは、やめましょう。

ましてや、他人に働く事を強要するのは、ほとんど暴力なんじゃなかろうかと。

 

まあ、しかしそうして、働かないでいると、働く組は多くて同調圧力がすごいので、どんどん、肩身の狭い思いにとらわれるけど。

 

 

 

 

不慮

最近、休みが少し多めであったから、あまり人に会うこともなかったので、久しぶりに人に会うとテンションがおかしい、ということに自分でも気づくわけですが、まあ、仕方ない。

自営業といえば、きこえはいいけど、所詮は無職みたいなものだし、社会的になんらゴミみたいな存在だけど、なんとか楽しくは生きているような気はしている。

 

まあ、音楽と映画と本があれば、死なない。

 

しかし、相変わらず、クソみたいなことで、家内では内戦が繰り広げられていたりして、消耗する。

台風が、接近しているのに、窓を開けて寝たい派の息子と、びしゃびしゃになるから締めろ派のママ、深夜に不毛な言い合いをしている。

まあ、十代半ばから二十代半ばまでが、第二次の男子の死ぬ確率アップ時期だと思うので、台風きてるけど、なぜか自分だけは大丈夫っしょ症候群なのは、仕方ないです。

大体において、ここらへんの年頃の男子は、自分を無敵だと思ってる節があって、自分などもそうだったけれど、どこかしら、なにしても死なないぐらいに思ってるけど、まあ、わりと死ぬので気をつけたほうがいいっていうのは、親になってようやく分かるわけです。

まあ、自分の無力無能を、うっすら理解しつつも、それを認めたら負けだし、心折れるので、必死で粋がる年代なので仕方ないということが、奥さんママには分からないようで、必然的に、不毛なバトルになるので、僕はバカバカしくてイヤになるけど。

 

まあ、自分もバカだったから、仕方ない。

とにかく、不慮の死だけはさけられたらいい。

 

 

生きやすさ、生きづらさ①

かわいいだけが正義じゃない。  

可愛いに越したことないのは、中年のオッさんからしたら、希望としてのデフォルトだけど。そんなことより、男の子も女の子も、こうありたい自分で生きられる世界がのぞましい。 

こうありたい、というフォルムが、どこからくるのか、それは既存の社会側からくる、その実、息苦しいものかもしれないけど。

 

こういう状態だったら、生きやすいというのが、様々に実現可能な世の中であれば、かなり大勢の人が幸せになると思うけれど、未だに、大多数の人間が、「しゃかい」の歯車たる演習をしつつ、育つ社会システムであるから、その歯車にのらず、生きることは孤高だったりして、大変なので、僕のように、適当に生きるのがいい気がするけれど、適当な人間は、またそういう人間独特のアイデンティティのなさでもって、死ぬこともある。

 

なにものかでもなく、周辺で、それらしい空気を吸って、死ぬ、モドキみたいな人生が似合っているヤカラとして、クソのように死ぬと思うのも、なにものかでなくてはならないような昭和の教育のさがなのか。

 

 

学校会社

どうなんだろう学校。

自分が、あまり学校や会社というものに、縁がないから、やはり、本当に必要なのかな、学校、そして会社と思ってしまう。

 

意外といらないのではないか学校も会社も。

 

というのも、学校も会社も、言われたこと、決められたことをやる能力は、身につくかもしれないけど、人がしないことや、決められたこと以上のことをする人間の出現を妨げているのではないかと思わざるを得ない。

トイレで、ウンコもできないような同調圧力のある小中学校で、自由になにかやる、なんて子供が阻害され育たないのは明らかな気もする。

 

言われたこと、決められたことを、そつなくこなす人間が必要な社会というのは、基本的には安定してる社会であることは自明かと思うけれど、今現在、この世の中が、決められたことだけをしてたら、どうにかなるかというと、わりとそうでもない、ということは、肌身で感じられることだと、認識してるのだが、世の中は広いので、わりと、そんなこともなくて、大学まで出て一流企業就職は、やはり重要なのだろうか。

 

でも、一流大学も企業も、世間一般からの今現在での評価でしかなくて、入学就職するにあたり、自分が最高にワクワクするから、選んでるかというと、甚だ疑問もあり。

価値基準の判定を自分の内側ではない外側において、世の中がよいとするから、よいと、自分ではないところに基準をおいて、生きる方向を決めると、わりとつらいのではないかと思う。

 

それはまあ、昔からそうなのかもしれないし、大体において、意に沿わないけど、勉強し就職し、恨んでるというのは、まあ、わりと聞く話だけど。けれど、まあ、それは、その価値観をおしつける先行世代がいるみたいなことがあってのことだけど、いまや、先行世代がそう言わなくても、従順に学校会社につき従い、なぜに自分が苦しいか分からずに、苦しんでるような人も多い気がして、不安定な世の中で不安定に生きるのはそれなりに怖いので、前時代の価値観に従うと、我慢もしなければ、だけど、まだかろうじて、生活は安定してるような気がする。だからこそ、学校、会社を頼みの綱にする、その気分は充分わかるけど。

本当は、みんなが自分の好きなことを好きなように追求したら、もっともっと、色々な可能性が色々なところで花開くわけで。 

 

学校や会社は、為政者には税制などでも都合がいいから、延命されるだろうけれど、今後はますます個人の幸せという側面では、ありがたくないものになる気がする。

怒られ、回避。

怒られるのがイヤだから、仕事上のコミュニケーションを避けて、もっと怒られる状況をつくりだす、主に若い男性に多い傾向の原因は、なんなのだろう。

 

現代的な観点で、予想されるのは学生の頃から携帯電話があって、直接のコミュニケーションが減り、対面でのやりとりと、コミュニケーション齟齬に対する耐性が弱いというのは、考えられる。

居心地の悪くなったコミュニケーション空間を正常化しなくてはならない場面の経験値が少ないのかもしれない。

草食化とかいうけれど、他者がいなくても、一定の娯楽がネットにあふれているので、気持ちとして基本的には、ひきこもりがちにならざるを得ないのではなかろうか。

 

そりゃ、ほとんど知らないようなオジさんオバさんとコミュニケーションをとり、その人格と仕事の進め方を学び、怒られたら次は怒られないようにしよう、などというモチベーションはもちえようもない。

自分だけの楽しいことをしていたい。

 

でも、自分だけの楽しいことをしていたいのは、オジさんオバさんにしても同じはず。

なのに、しないのは、まあ、いわゆるところの教育により社会化され社会の一部たるを引き受けて、それでなんらかしらの満足と金銭を得てきたからなんだろう。

重要なのは、満足と金銭。子供の頃に学校や家庭で、教育と称して言われ続けたことに従った結果に、今のオジさんオバさんは、ある程度満足しているのであろう。

自分が従ってきた教育や社会を価値あるものと考えるのは、人の気持ちとして仕方ない。

きっと怒られることに対しても、その先に満足と金銭があると頑張って、その結果を得たのだろう。

しかし、それが果たして未来永劫に通じるメソッドなのかというと、満足も金銭も、昔と今では明らかに変質していると思う。 

 

満足でいえば、会社や家庭で褒められ満足を得る手段しかなかった時代から、今や、世界から、いいね!を貰える時代である。

自分のつぶやきが、見も知らぬ人から、いいね!されることのほうが、近しい人から褒められるよりも、価値や満足は高いだろう。

近しい人は色々な事をくみとって、褒めてくれているだけかもしれないし。

金銭にしても、やりたいことでお金を作ることは、技術的にはるかにやりやすくなった。

会社に入らなくては就職しなくてはダメだ。なんてことはなくて、むしろ、なんらかのレアな能力、ニッチな才能を持っていたほうがいいぐらいなことになっている。

会社に入って金銭のために、怒られるなど、好きなことで暮らして儲けている人が増えてる世の中で、若い人からしたら馬鹿げていることだろう。

 

やはり、総じて、仕事のできない若者が増えたというのは、仕事における満足と金銭が変質してるからなのは、否めないのではなかろうか。

怒られ、を乗り越えるだけの価値を、会社や仕事にあまり感じ得ないのではないか。 

 

それでも、コミュニケーションコストをショートカットしようとする傾向は、デジタル技術の影響が若干あるのかもしれない。

対人コミュニケーションにおけるストレスに耐性のない若者を作りやすい環境は増えてるとは思う。

会社や金銭への態度の変質は、時代とともに方法をかえて、柔軟に生きたほうが長い目ではよいと思うけれど、対人コミュニケーションにおけるストレス耐性と、その対処法は、わりといかなる時代においても鍛えるに損のない、そして、元手もかからない、重要なスキルで、あらゆる人種年代の人とコミュニケーションをとれるようになることは大切な気がする。

 

なので、怒られたくないのは分かるけど、コミュニケーションはショートカットしてはならない。

まあ、でも、コミュニケーションが一番面倒くさいけど。

デザイントークスプラスという番組の編集を、放送開始から担当させてもらっているけれど。 

https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/designtalksplus/

 

なにより面白い。テーマをたてて、でも、中身は自由に。なにかを作ってる人の声が、わりと、ダイレクトに放送されている。

結論ありきで、硬直化する日本国内の番組より、色々な人が出てるし、広い視野を持った番組で、すきです。

 

ザ・ノンフィクション

6月18日と25日の二週にわたり、編集をしたphaさんの暮らしが放送されます。

 

働かないでいると肩身の狭い世の中ですが、別に働かないで、好きなことして暮らせたら、それにこしたことはないのでは、ないかと。

さらには、好きなことがお金になるのであれば、それにこしたこともない。

 

なぜか、世の多くの人は、若者は必死に働いてなんぼだ、若いうちは我慢して働くもんだという、洗脳をうけていて、つくづく戦後の高度成長期の成功体験は、この国に強固に根付いたんだなと、思わざるを得ない。

なので、今だに時代遅れの一斉板書授業してる学校なのに、規則を守る、つまり言うことをちゃんときいて、疑問を抱かず、大学までいって、企業に勤め税金をちゃんと払う、そういう時代遅れのロボットみたいな人をつくろうとする。

 

いつまでも、なんで変わらないのか、不思議でならない社会のなかで、僕と近い年齢の人が、新しいことをやっていると嬉しいし、より広く知られて、みんなもっと、自分の好きなことをして暮らす工夫をし始めるようになったらいいのに。

 

どうせ一度きりで死ぬ人生なのに、社会を気にして、ニートだからと自分を責めることなんて一ミリも無いし、社会のために役立つ人材になる必要なんてない。

人生の時間は、完全に有限である。だからこそ、それは自分のものとして、生きなくてはならない。

嫌なことは、1秒だって我慢しなくてもいいはず。

ただ、1秒の嫌なことの先にもっと、長い幸福の時間があるということはあるだろうけれど。

しかし、その1秒を我慢するかどうかを決めるのは、常に自分であるということさえ、ぶれなければいいと思う。

他人の評価、社会の価値観、家族の束縛支配、生きる指標を自分の外に置いては、どこまでも自分の時間を生きられない。

 

本当は、働くか働かないか、ということよりも、より多くの選択を自分で行えているかということなのかもしれない。

そうしないと、どこまでいっても、十全には生ききれない。